英国の法廷弁護士がAIを活用し、医療過誤訴訟で複雑な医学知識の理解を深めている。大手法律事務所もAI導入を進めるが、守秘義務や誤情報リスクが課題。英国政府は裁判所業務へのAI導入を計画中。
英国の法曹界でAI活用が進展、医療訴訟や裁判所業務で実用化へ
英国の法廷弁護士が、人工知能(AI)を法律実務に取り入れ始めています。特に医療過誤訴訟の分野で、AIは複雑な医学知識を理解するための強力なツールとなっています。臨床過誤専門の法廷弁護士アンソニー・サール氏は、ChatGPTなどのAIツールを使って医学論文を検索し、専門家への質問をより的確にしています。これは数百年の歴史を持つ英国の法曹界において、大きな変化の兆しです。英国政府も、裁判所の事件管理や翻訳、記録作成などにAIを導入する改革案を発表しました。大手法律事務所も続々とAI専門プラットフォームを導入していますが、依頼者の守秘義務やデータ保護の制約、そして誤った情報を生成するリスクが課題となっています。2024年には偽の判例を引用した事例も発覚し、業界全体が慎重な姿勢を取りつつも、AIの可能性を探っています。
医療訴訟でAIが弁護士の武器に
2024年春、英国ミッドランド地方で心臓手術を受けた70代男性が、術後2日で急変し亡くなりました。遺族の代理人となった法廷弁護士のアンソニー・サール氏は、何が起きたのかを解明するため、外科医に専門的な質問をする必要がありました。しかし検視官が独立専門家の報告書作成を認めなかったため、サール氏は別の手段に頼ることにしました。それがChatGPTです。
サール氏は35歳で、臨床過誤を専門とする法廷弁護士です。彼はAIツールに依頼者のデータや情報を入力せず、AIが出力する情報や引用をすべて検証するという慎重な姿勢を取っています。それでも、彼は数百年の歴史を持つ法曹界において、AIを積極的に活用する先駆者の一人です。サール氏は「検視に回される死亡事例は、遺族にとって衝撃的なものです。遺族が求めているのは、愛する人がどのように亡くなったのかをより深く理解することです。ChatGPTを使うことで、手術の技術的側面に焦点を当てた質問ができ、専門家を呼べないことによる情報の空白を埋められました」と説明しています。
サール氏がAIを使う理由は明確です。以前はGoogleの検索やYouTubeの動画を使って複雑な医療手順を理解していましたが、AIはそれを大幅に強化したバージョンを提供してくれます。ChatGPTや、Anthropic社のClaudeに組み込まれたPubMedのような医療専門のカスタムプログラムを使えば、臨床研究や医学雑誌の論文を素早く検索できます。サール氏は専門家と話す際、AIを使い始めてから質問の質が上がったと感じており、専門家たちもより感心しているようだと述べています。
英国政府が裁判所へのAI導入を推進
サール氏だけでなく、英国の司法制度全体でAIの活用が進んでいます。英国の司法制度は慢性的な資金不足に悩まされており、裁判所の事件処理の遅れや、裁判関係者のリソース不足といった問題を抱えています。こうした課題に対する解決策として、AIが注目されているのです。
英国政府は、近代において最大規模となる刑事司法制度の改革案を提案しています。この改革には、裁判所での事件管理、翻訳、記録作成などにAIを導入する計画が含まれています。デビッド・ラミー副首相兼法務大臣は、2026年2月に裁判所改革に関する重要な演説を、ロンドンで開催されたマイクロソフトのAIイベントで行いました。数年前であれば考えられなかった場所での演説です。裁判所担当大臣のサラ・サックマン氏は、AIの試験導入を「ゲームチェンジャー」と表現しています。これらの発言は、AIが政府の司法ビジョンにとってどれほど重要かを示しています。
大手法律事務所もAI導入を加速
法律業界全体でも、AIは流行語となっています。ほぼすべての大手法律事務所がAI活用の壮大な計画を立てていますが、実際にこの数十億ドル規模の業界をどう変革しているかの証拠はまだ少ない状況です。ニューヨークの法律コンサルタント会社アダム・スミス・エスクの社長ブルース・マキューエン氏は「過去数十年間で法律事務所のリーダーたちの間で最も流行し、広く議論されているトピックのランキングがあるとすれば、AIが圧勝するでしょう。しかし今のところ、それは議論されているだけだという証拠しかありません」と指摘しています。
それでも、HarveyやLegoraといった専門AIプラットフォームの試験導入や契約書の分析・作成支援ツールの発表は、毎週のように行われています。法律事務所は、少なくとも依頼者のコスト削減に取り組んでいる姿勢を示そうとしています。英国の法律事務所Shoosmiths社は、2024年にスタッフがマイクロソフトのCopilotで100万回のプロンプトを達成したことへの報酬として、ボーナス総額に100万ポンド(約130万ドル)を追加しました。米国の法律事務所Ropes & Gray社は、若手弁護士に請求可能時間の5分の1をAI技術に費やすよう推奨し、調査や契約書作成の高速化の実験に使わせています。エリート事務所のClifford Chance社は、2024年末にバックオフィス部門の10パーセントを削減しましたが、これは部分的にAIが一部の業務を引き継ぐことを見越した措置です。
守秘義務と誤情報のリスクが課題
しかし、弁護士の大規模な削減はまだ何年も先のことのようです。依頼者の守秘義務とデータ保護の要件が、現実にAIをどれだけ使えるかを制限しているからです。
業界全体が警戒を強めているのは、2024年にロンドンの高等裁判所が厳しい判決を下したことがきっかけです。この判決では、法廷弁護士がAIを使用した、または使用した疑いがある2つの事例で、虚偽の情報が含まれていたことが指摘されました。1つの事例では、最大18件の偽の判例引用が使われていました。裁判官は2024年6月の判決で「人工知能は、リスクと機会の両方を伴うツールです。人工知能が誤用されれば、司法の運営と司法制度への国民の信頼に深刻な影響があります」と述べています。
法律データ分析プロバイダーのLexisNexis社が実施した2026年1月の調査によると、法廷弁護士の50パーセントが法律業務にAIを使用していると回答しました。これは2024年の25パーセントから倍増しています。しかし、AIが法律業務や戦略に組み込まれていると答えたのはわずか2パーセントでした。この数字は、AIへの関心は高まっているものの、本格的な導入にはまだ時間がかかることを示しています。
医学知識の習得にAIが威力を発揮
サール氏にとって、AIの最大の価値は医学知識の提供にあります。彼は英国の国民保健サービス(NHS)などの機関を相手に訴訟を起こしたり、逆に代理したりしており、母体ケアの失敗から手術の失敗まで、あらゆる事例を扱っています。サール氏は「法律専門家がAIのリスクについて話すとき、それは常に法律調査と法律の適用という文脈です。しかし私の仕事のほとんどは法律についてではありません。法律は確立されており、議論の余地はありません。本当に重要なのは医学であり、特定の診断や治療、手術に関して展開できる議論なのです」と説明しています。
サール氏は、AIプラットフォームが医学生や医療専門家向けに作成したのと同じカスタム医療プログラムを使用しています。こうしたカスタムツールは、弁護士としての彼の実務に不可欠なものになったと言います。サール氏は「おそらく私たちはすでに、AIが人々の判断や意見に挑戦できる段階に達していると思います」と述べています。
ただし、サール氏は慎重な姿勢も忘れていません。「法制度と法の支配は人間に関するものです。最終的に決定を下すには、人間による共感と判断がまだ必要です」と彼は警告しています。この発言は、AIがどれほど進歩しても、法律の世界では人間の役割が中心であり続けることを示唆しています。
できること・できないこと
現在のAI技術により、法律専門家は複雑な医学論文や臨床研究を素早く検索し、理解することが可能になります。例えば、心臓手術の合併症に関する最新の研究論文を数分で見つけ出し、その内容を要約してもらうことができます。また、医療過誤訴訟における損害賠償額の計算を、年齢や失われた年金拠出額などの要素を考慮してより正確に行うこともできます。法律事務所では、契約書の分析や下書き作成の補助、法律調査の効率化などにAIが使われ始めています。
一方で、依頼者の機密情報をAIに入力することは、守秘義務とデータ保護の観点から大きな制約があります。AIが生成する情報には誤りが含まれる可能性があり、特に判例の引用などでは虚偽の情報が生成される危険性が指摘されています。実際に2024年には、偽の判例を引用した事例が発覚し、裁判所から厳しい警告を受けました。また、AIはあくまで情報提供や作業効率化のツールであり、法律判断や依頼者への共感といった人間にしかできない役割を代替することはできません。今後数年間で技術が進歩し、より安全で信頼性の高いAIツールが開発されることが期待されていますが、完全に弁護士の仕事を置き換えることは当面ないでしょう。
私たちへの影響
このニュースは、法律サービスを利用する一般の人々や企業に、いくつかの影響を与える可能性があります。
短期的な影響については、法律サービスの効率化により、一部の業務でコストが削減される可能性があります。特に契約書のレビューや法律調査といった定型的な作業が速くなれば、弁護士費用の一部が抑えられるかもしれません。また、医療過誤訴訟などの複雑な事例では、弁護士がより深い専門知識を持って対応できるようになり、依頼者にとってより良い結果につながる可能性があります。英国政府が裁判所業務にAIを導入すれば、事件処理の遅れが改善され、裁判がより迅速に進むことも期待できます。
中長期的な影響としては、法律サービスの提供方法が大きく変わる可能性があります。定型的な業務がAIに置き換わることで、弁護士はより複雑で人間的な判断が必要な業務に集中できるようになるでしょう。これは法律サービスの質の向上につながる可能性があります。一方で、法律事務所のバックオフィス部門などでは雇用が減少する可能性もあります。
ただし、AIの誤情報リスクには注意が必要です。弁護士がAIの出力を十分に検証せずに使用すれば、誤った法律アドバイスや裁判資料の作成につながる危険があります。依頼者としては、弁護士がAIをどのように使用しているか、そして適切な検証プロセスを経ているかを確認することが重要になるでしょう。
